世界に誇れる日本人~西岡京治

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ブータン農業の父と呼ばれ国葬された日本人

世界には日本人には知られていないが、海外では知名度の高いという日本人がたくさんいます。そしてこの西岡京治氏もその一人になります。昨今「世界一幸せな国」と言われ注目されているブータン。そんなブータンを28年もかけて農業大国に育てあげた日本人であり、「ブータンで最も尊敬されている日本人」と言われています。

西岡氏は、終戦時に食べるものもなく貧しい幼少期を送った経験から高校卒業後、大阪府立大学農学部へ進学します。その後JICAの一員として農業技術支援をするために妻と共にブータンへ渡ります。

当時ブータンは日本よりも耕地面積が少なく田畑院使えるのは国土の1割程度でした。そしてさらに前近代的な農業をしていたため効率が悪く極めて低い農業自給率でした。しかも当初ブータン政府から支給された土地はわずか(たった60坪)でした。また指導するのも少年3人という劣悪な環境ながら不満も言わず熱心に農業指導を行います。

その西岡の真摯な姿勢と着実な結果向上に西岡を取り巻く環境は次第に変わっていきました。そんなある日の第3代ブータン国王との会食の際。西岡はそれまでの400倍の農業地を与えられます。そしてそれまでブータンになかった白菜、キャベツ、ニンジンなどの野菜を栽培することになります。

またさらに今までブータンになかった日本式稲作の指導を開始。ブータンより収穫率の高い日本式の稲作を取り入れたことで収穫量は4割向上したと言われています。やがてブータン各地から西岡の農業技術を学ぶ人が集まり、ブータン中に日本式の農業技術が広まっていきました。そんな西岡はJICAの任期が過ぎてもブータンへとどまり農業技術の指導をし続けました。

西岡がブータンに来て8年目。第3代国王が急逝し、16歳の現国王が即位します。そして西岡は現国王からブータン南部にある“忘れられた土地”を救ってほしいとの相談を持ち掛けられます。西岡は国王からの要請を快諾し、妻とまだ幼い子供を日本に残し、独り辺境の地に向かいました。

そこは平地がほとんどなく荒れ果てた斜面ばかりで農業自体を行うのが困難な土地でした。また当時の村人たちは古いやり方に固執し、全く西岡の意見に耳を傾けないという状況。しかしここでも西岡はねばり強く村人たちが抱えている問題を解決し、信頼関係を築く事から始めました。そして次第に村人たちに受け入れられ、協力関係を築くに至りました。

開墾は困難を極めましたが、西岡は諦めることなく少しずつ、でも確実に、この忘れられた土地を変えていきました。また農地の開墾改革だけでなく学校や診療所までも開設していきました。そんな西岡の努力が実り、忘れられた土地は大きく姿を変えました。ただの荒れ果てた土地。忘れられた土地と言われた場所には、18万もの水田が新しく生まれ、稲穂がたわわに実りました。

その後、西岡はよりブータンの気候に合うよう野菜の品種改良にも取り組みました。それによりブータンに今までなかった様々な野菜が市場に並ぶようになり、約60%だったブータンの食糧自給率は86%にまで上昇しました。

その功績から1980年に西岡氏は、国の恩人として、ブータン最高の栄誉であるダショー(最高の人)(日本で言う国民栄誉賞のようなもの)の称号を授かります。この名誉を授かったのは後にも先にもブータンの歴史上、外国人ではこの西岡のみです。

しかし1992年、西岡は志半ばで急逝します。それは59歳という早すぎる死でした。この西岡の突然の死にブータンの人々は嘆き悲しみました。そしてその今までの功績から西岡は国葬されることになりました。葬儀には西岡を慕うブータンの人々が各地から弔問に訪れ、その数は5000人もの人々が参列したと言われています。



ブータンの朝日に夢をのせて―ヒマラヤの王国で真の国際協力をとげた西岡京治の物語 (くもんのノンフィクション・愛のシリーズ)

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